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【vol.6】おばあちゃんとの出会いが、僕の人生を変えた。 ―代表が語るリノベる創業ストーリー(1)
こんにちは、リノベる 代表の山下です。
WEBサイト「パズル」のオープンにあわせ、リノベるの創業までの流れを、順を追って振り返ってみることにしました。
リノベるのストーリーは、僕自身のストーリーでもあります。特に初めのうちは、自分自身の仕事やプライベートのことがほとんどになるかもしれません。でも、それはすべて、リノベるという会社が生まれるために必要な行動や悩みだったんだなと、いま振り返ってみて強く思います。
ですので、ちょっと恥ずかしいですが、できるだけ隠さずお話してみたいと思います。少し長くなるかと思いますが、ぜひお付き合いいただけたら嬉しいです。
「ラグビー部」から、ゼネコンへ。
1998年。
僕は、関西のゼネコンで働いていました。
そこで運命の分かれ道を迎えるのですが、そもそもなぜ、ゼネコンにいたのか。もう少し時間を戻したところからお話したほうがいいかもしれません。
高校時代、女の子にモテるときいて始めたラグビーに、僕はのめりこみました。大学時代は関西選抜にも入り、「自分はラグビーで食っていくんだ」と信じて疑いませんでした。大学を卒業後は大手メーカーに声をかけてもらい、ラグビー部へ。
しかし、1年で僕の夢は終わりました。ラグビーの天才とばかり思っていた僕は、外国人プレーヤーからポジションをとることができなかった。一度も一軍にあがることなくチームを去りました。実業団のチームをやめたわけで、つまり就職した会社を辞めたということです。
当時24歳。大きな挫折でした。しかしどこかで、若いし何とかなるだろうという妙な自信がありました。そんな中で先輩に声をかけてもらったのが、ゼネコンの建築現場の仕事です。
アルバイトの現場監督として雑用をこなす毎日。がむしゃらに働き、人にも恵まれました。ほどなくして、ありがたいことに正社員に。そしてさらに、「お前なら営業もできるんちゃうか?」と、社内でも花形とされていた企画部門へ。アルバイトから入って2年ちょっと。仕事も覚え、認めてくれる人も増え、僕はノリにノッていました。
「地上げ」という仕事。
大阪にある古い大規模団地を取り壊し、200戸以上のマンションを建設するという大型プロジェクトが、僕の初仕事です。そしてそのまま、最後の仕事にもなりました。
任されたのは、用地開発。もともと団地に住まわれている方に立ち退きの交渉をする、いわゆる「地上げ」といわれる仕事です。
地上げというと、古くからお住まいの方に無理難題をつきつけるようなイメージがあるかもしれませんが、実際そんなことはありません。そのプロジェクトでも、立ち退いていただく方には「竣工するマンションの1戸に加え、もう1戸を差し上げる」という好条件のご提案ができました。
古い団地の1戸が、2年の工事期間中に仮住まいするだけで、新築マンション2戸になるわけです。普通に考えたらラッキー。ですから、交渉もトントン拍子に進みます。
そんな中で1戸だけ、お一人でお住まいのおばあちゃんだけが、僕の話をまったく聞いてくれませんでした。ピンポンを鳴らしても、出てすらもらえないのです。
なぜ、おばあちゃんは立ち退きをいやがるのか?
とにかく現場に通い、おばあちゃんが出てくるのを待ちました。待ち伏せ、といったほうが適切かもしれません。
ようやくおばあちゃんが出てこられたのを確認した僕は、すかさずご挨拶しました。しかし、「興味ないよ」の一点張り。お金にも困ってないから興味ないと、そう仰るんです。亡くなったおじいちゃんが遺してくれた、かげがえのない家だからと。
会社に戻ると、「どうなってるんだ」と先輩の激しい叱責が待っています。こんなに好条件が揃っているのに、なんでまとめられないんだと。ここには書けないレベルの言葉で怒られていました(笑)。
きっとおばあちゃんも、周囲の立ち退きがどんどん進んでいるなかで、自分もそうせざるを得ないんだと、頭では分かっているはずです。でも、気持ちがついてこない。だったら、その気持ちを後押ししてあげるのが、僕の役割です。
僕は朝一番におばあちゃんのところへ出かけて、一日べったりと着いてまわることにしました。何気ない世間話をしながら、買い物に付き添い、接骨院についていき、一緒にお薬をもらって。
そんな中でふとおばあちゃんの口から、こんな言葉をきくことができました。
おばあちゃんには、僕と同じくらいの年のお孫さんがいること。
そのお孫さんとは、ずいぶんと疎遠になってしまっていること。
恥ずかしくて言えなかったけど、実は今の家にいつか孫が帰ってきてくれると信じていること。
だから、家を離れるわけにも、手放すわけにもいかないということ。
それだったら、と、僕は切り出しました。
いま少しの間だけ家を空けていただくと、おばあちゃんが新しいお住まいに住めるようになることもそうだけど、もう1つ、お家をお渡しします。これを、お孫さんにプレゼントしたらいかがですか。
僕に、お孫さんの姿を重ねていたところがあったのかもしれません。おばあちゃんは、ようやく首を縦に振ってくれました。
僕が作っていたのは笑顔ではなく、涙だった。
それから2年ほどたって、新築マンションは無事に竣工を迎えようとしていました。現地で、外壁をぐるっと見てまわっていたときのこと。同じようにマンションを眺めていたおばあちゃんと、たまたま顔をあわせたのです。
忙しい毎日に当時の記憶が薄れつつあった僕は、一気に懐かしくなり、「どうも、山下です」と声をかけました。しかし、返ってきたのは思いもよらぬ言葉でした。
「あんたが私の人生を奪った」
ものすごい形相で僕をにらみ、涙をあふれさせるおばあちゃんの顔。「あんたがやってるのは、正しいことなのか」という問いかけに、僕は何も言うことができませんでした。
僕は決して嘘をついたわけではありません。おばあちゃんは、新築1戸に加えてもう1戸のお部屋を手に入れることができます。でも、団地が壊され、大きな建物がたっていき、思い出の景色ががらりと変わってしまうのをみて、おばあちゃんはそう感じたんだと思います。
ショックだったし、いつの間にか、自信をもって仕事ができなくなっていた自分に気づかされました。
例えば、自分たちが手がけたマンションを、会社の人間は誰も買いません。遠くないうちに、資産価値が下がることが見えているからです。お部屋の間取りも、当たり障りのない平凡なものを作るのが絶対。10人いたら8人が「まあこんなものかな」と思えるものを作るのが正解で、誰か1人でも心から満足してもらえるものを作ろうとするのは間違っていると、はっきり言われていました。
僕の仕事は、誰の幸せにつながっているんだろう。モヤモヤした思いを抱えたなかで、おばあちゃんの言葉が重くのしかかります。
このプロジェクトが終わったら、一回、休みをとろう。
働き詰めだったこともあり、3ヶ月の長期休暇を認められた僕は、ラグビー時代の仲間のツテをたどって、海外をまわってみることにしました。
(次回につづく)
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